私と絵との出会い {2002年4月24日 本庄市民生委員女性部会 講演}
安藤謙一
ーーー安藤が読み上げた後、字幕―――――――――――――
私の姿を見てみなさんは何を連想しますか。私は子供の時から「たこ」ことか「アンマーとかと体の動きをあざなにされ呼ばれてきました。そのため、自然に私はその様なあざなを受け入れて自ら「たこ」言うようになりました。
まず、最初は、5年前に私の生活を撮影したビデオを15分ほど見ていただきたいと思います。
私の37年間の人生で、絵という生きがいを見い出せるように成ったのは、わずか20代後半からの10年間だろうと思います。
●私の障害、
私は9ヶ月の早産のため未熟児と黄疸症状が強かった、ために脳性小児マヒに成ってしまったのです。(脳性小児マヒアテトウゼ型、首が安定しなく、左手しかきかず字も書けない、話す事も困難です。)
これからは、私の言葉が不鮮明なので、パソコンの音声と字幕でお話しさせていただきます。
ーーーパソコンの音声と字幕―――――――――――――
● 養護学校入学にあたり、
私が養護学校に入学した、1971年当時はまだ障害児は完全義務教育化されていない為、重度障害児は就学猶予とされて、義務教育から除外されている時代でした。
その為、肢体不自由児を対象とした養護学校は埼玉県内に一校しかなく、県内外から入学希望者が殺到したので、小学部へ入学にあたり障害の程度、知能指数テスト、模擬授業中の態度それに面接があり、まるで現在の有名付属小学校の入学試験のようなありさまでした。
私は条件つき入学という事でした。その条件とは母親が養護学校について行くことで入学を許可するものでありました。母は私の教育をするため仕事を辞め養護学校へついてきてくれました。
・養護学校では、
しかし、学校のスクールバスでの送迎があるのですが、それも、本庄市や児玉町まで、幸い、私の父の勤務先が熊谷だったので、朝は、父の車で登校し、下校時は、本庄駅までスクールバスであとは、母と1時間に1本しかなく、下校ラッシュの東武バス(現在朝日バス)本庄鬼石線で青柳小学校前までバスに乗って帰ってくる毎日が7年間も続きました。
という事情もあり私は養護学校に入学した同期生の中でも最重度のほうに入ってしまい、その為か授業中にノートに絵を描いて居る落ちこぼれの悪い生徒でした。
●養護学校卒業以後、
・2年間の在宅生活、
そんな訳もあってか、養護学校卒業以後、まる2年間、全くの在宅であった為、当時発売したてのパソコンを父親に買ってもらい絵を描いて遊ぶ毎日でした。
・障害者施設では、
その間福祉事務所や近所の人からの紹介で、あちこちの身体障害者授産施設に体験入所して見ました。しかし、1984年、頃の身体障害者授産施設は、ノーマライゼーション共に生きるという考え方が定着していないために、地域社会から孤立しているところでした。
そのため、私は現在、心身障害者地域デイケア施設を利用しています。この施設は仕事をとうして集団生活の中で社会生活ルールを学び社会復帰につなげて行くのが本来の目的です。しかし、実状は重度心身障害者がレクリエーションや、軽作業を行っているのが現実です。このような障害者福祉の現状の中で、自分自身の生きがいを求める事に成ると、デイケア施設からの援助では範囲に限界がある事に気づき、結局、自ら地域に飛び込み地域のボランティアの方々お力添えが必要だと感じました。
●地域社会に出て、
実際、私のような重度心身障害者が地域に出るといろいろな事がありました。
・路線バスで、
それは10数年前の事、私が独りで路線バスに乗ると運転手が私に聞こえるように「障害者の運賃は半額だし、事故が起きればこっちの責任だしまったくやっかいな客だ」と言いました。私は障害者へ対する差別発言だと思いバス会社へ怒りの手紙を書いたら、その数日後その運転手から謝りの電話が家へかかって来たことがありました。
・見かけだけで、
私は脳性小児マヒであるため世間では脳性小児マヒ=馬鹿という先入観を持つ人が多いそれに、私には言語障害があるために、特に初対面の人には、私の言葉があまり理解できないので、コミュニケーションをうまく取れないために、私の価値観や意見が理解さでず、表面上、みにくい姿をしているので、変な人と誤認されてしまう事が多くあります。
・マスメディアの影響、
よくよくこの背景を考えてみると、一般的にマスコミの報道の影響から、身体障害者=車椅子という固定概念が広がっているからだと考えられます。
・スーパーマーケットで、
以前、あるスーパーマーケットで公衆電話をかけていると、50代の女性が私から受話器を取り上げ「変な人、邪魔、警察呼ぶわよ」と言い私をどかし、私の釣り銭で女性が電話をかけ私の前から立ち去って行きました。
私は何も抵抗出来ずその場に立ちすくんでいるだけでした。
・あるバス停で、
逆に、心が暖まる事もありました。ある夏の日。私が神川町内の身体障害者施設へ遊びに行った帰り、あるバス停でバスを待っていると、前の家から、一人の少女が出てきました。すると、少女は私に、話し掛けてきました。「おじさん暑いね、何処から来たの、時間があったら私の家へ寄って。」と言いました。
私はあと3分でバスが来るので「ありがとう、もうバスが来るからと言った。」少女は私がバスに乗るまでバス停にいてくれました。
私の家は青柳小学校の通学路から100mほど入った所にあり、私が散歩の時、下校時間にあたると、小学生が私を見ると「身体障害者」と言って逃げるか、テレビのバラエティー番組の影響か、お笑いタレントの仕草や言葉をまねして、からかうかです。私もこれには腹が立つこともありました。
バス停で出会った、あの少女はこのような変な観念がなく素晴らしい子だと思いました。
●障害者はなぜあまり外出しないか
近年、公共機関のバリアフリー化は急速に進められています。
この街のJR本庄駅にもエレベーターや車椅子対応のエスカレーターが設置されています。しかし、本庄駅を利用する車椅子の障害者は月に一人ぐらいだそうです。
ではなぜ、本庄駅を利用する車椅子の障害者がこんなに少ないのでしょうか?私なりに考えてみると、2つの原因があると思います。
・物理的な問題、
まず、その1つは物理的な原因です。
本庄駅は児玉郡市地域の主要駅ですが、駅と各地区を結ぶリスト付きタクシーやノンステップバスが全く走っていません。これではいくら主要駅がバリアフリー化されても地区から駅への交通機関がバリアフリー化されなければ障害者は利用することが出来ないからです。
・精神的な問題、
2つ目の原因としては、障害者本人と家族の心の問題です。
児玉郡市地域には、いまだに世間体を考えて障害者が存在している事を隠す家もあると聞いた事もあります。
そんな中で特に先天性重度障害者は常に日常生活に介助が必要とするので家族や施設職員の意見に従うしかなく、自らの意見で行動する事が出来ないのが現実です。
それに家族からは、何も解らない、何も出来ないと初めから決めつけてしまい何もやらせない。また、施設に多く見られる事で、施設で障害者を預かっている時間に、事故がおきたら施設側の責任であるから、利用者には危険なことや冒険的な事をやらせない。こんな事が日常的に続いている、先天性重度障害者は、自分は何も出来ない、何も解らない人間だと思い、ただ周囲の人々の意見に従って生きて行くしかないと考えてしまうからです。
●絵を描き始めたきっかけは
私が絵を本格的に描き始めたきっかけは、実はあまりにも人間の本能的な事からでした。
・恋愛、
それは、11年前に心身障害者地域デイケア施設の旅行の女性ボランティアに恋愛感情を抱き始めたころからです。
通常、施設を利用している重度障害者の場合、重複障害と思われ子ども扱いされ、性や結婚の話しをすると、真剣に受けとられないで、ちゃかしたり、冷やかされたり、時には相手の人を傷つけてしまいます。そんな中で本当に心から好きな人が出来てもこんな状況では言葉にすることができません。そして、施設側からボランティアに対して、利用者に恋愛感情があると気づいたら、どうせ何も出来ないのであるから、適当にあしらっておきなさいと言って置くところが多い。
私はこんな状況の中、この女性ボランティアと何とかうちとけてコミュニケーションをとれるようになり、普通の男性と同じような扱いにして欲しかった。
私は彼女の気持ちを私の方へ少しでも引く為に、学校時代、絵を描いて美術の先生によくほめられた経験があったので、試しに彼女の顔を描いてみました。その結果、私の思惑以上の反応を示し、とても喜んでくれました。
それから2年ぐらい彼女と二人だけで美術館へ出かけたりということが続きました。
・現実、
しかし、当然、独身の男性なら、恋愛の後に続くものというと結婚を思い浮かべる人も多いと思いますが、先天性重度障害者の「性」の問題はタブーにされている。
現に看護婦である私の母も経済的自立が出来ない私には「性」の問題はタブー視する一人です。そのため、私は思春期の頃から母になるべくこのような話題にはふれないようにし向けられてきました。それに、私が在住する農村部では、経済的な自立が達成出来ない先天性重度障害者が結婚する事なんか考えられない地域。だから私の母も男が女に食べさせて貰うなんて恥だと世間体を考えて「おまえは人のやっかいに成るのだから結婚なんか考えるのではない。それより独りで生きて行く事を考えて、将来は入所施設で暮らせば良い」と話します。
ちなみに、私の収入は国民年金障害基礎年金が一ヶ月約8万円、重度心身障害者在宅手当が5千円合計8万5千円のみですから、当然、私はこの収入で結婚なんか出来る可能性は0に等しいです。
・空想、
私の絵は恋愛感情から生まれる夢、決して現実的にならない恋。つまり、私、自身の心の中にある言葉では表現できない思いや悩みなどを私が住んでいる神川町の風景をバックに実在する人物を組み合わせ架空の世界をかいた物です。
ちょうどその年は国際障害者10年の最終年に当たり、NHKで障害者の絵の募集が行われ、私も応募してみたくなり、彼女の為に描いた絵と詩を添えて、送って見ました。
・絵の評価、
その1ヶ月後NHKの担当者から家に電話があり、「絵は落選でしたが、あなたの詩にとっても感動しましたので、普段の生活を聞かして下さい」と言うものでした。
その二つの事があり、私の中で十年間眠っていた絵を描こうとする意欲を呼び覚ましてくれたのでしょうか。
●自分なりの技法、
私は画用紙にクレパスを塗り灯油を含ませたちり紙で擦る技法で絵を描いています。
最初の頃の絵は人の技法をまねて描いていました。それがある失敗で自分なりの技法を探し当てました。それは、ホワイトボードに油性のマジックインクで落書きを描いてしまい、たまたま石油ストーブへ灯油を給油してふき取ったちり紙がありました。それを取りホワイトボードをふいたら落書きか消えたので、それでクレパスを延ばすのに応用できないかと試した結果、私なりの技法が出来上がったのです。
●2人展、
1993年5月に私が以前入っていたボランティアサークルの定例会で、たまたま本庄市の心身障害者地域デイケア施設の所長代理と会い絵を見せた事からでした。
その数日後、本庄市の心身障害者地域デイケア施設から電話があり「うちの利用者と2人展を行って見ないか。」と言うお話しでした。しかし、私は絵を始めて一年しかたって居なかったもので、まだ人様に見せる段階ではないと考え断りました。しかし、再三説得され2人展を行ったのです。
1994年2月、2人展を行う一週間前から三大紙の地方版に取り上げて頂いたお陰で、2人展を大変盛大に行う事ができ、それが1994年10月の児玉郡神川町での絵画展に繋がって行ったのです。
私は3年間、毎週月曜日の午後、神川町にある身体障害者療護施設ルピナス神川ホームに行き、利用者と共にボランティアの先生にご指導頂き絵を学んでいました。しかし、ルピナス神川ホームの利用者には絵を発表する機会がなく町の文化祭で細々と展示するのみでした。それを知り、私の絵画展に協力して頂いたボランティアの方々に呼びかけ、1996年4月に障害者支援団体としてボランティアサークル「あしなみ」を結成したのです。
これにより、辛うじて年一度10月に障害者の絵やその他の作品を発表する機会が提供出来るようになったのです。
●一般の展覧会へ
しかし、私が師事している絵の先生は「美術の世界では障害者だからと言うのは通用しない。」と言われ児玉郡市地区では、アマチュア画家の登竜門と言われる、麓原会公募展(ろくげんかい)への出品を進められました。
私は落選するつもりで、
1996年、麓原会(ろくげんかい)公募展へ出品してみました。すると私の予想に反して絵が入選してしまいビックリしました。それ以来同公募展には6回入選。1998年には埼玉県県北美術展で入選し、それと同時に少しプレッシャーを感じるようになったのです。
●横浜での個展、
1998年10月、親戚の集まりで母が横浜市栄区在住の母の従兄弟、n氏へ私が絵を描いていることを話した事からでした。
1998年10月、n氏が私の家を訪ねて絵を見て行ったのです。
1999年2月、n氏から電話があり、横浜の障害者支援団体「横浜市民の会」主催のふれあい広場が5月にJR港南台駅前のバーツで行われる、そこで絵を数点展示出来るというものでした。
1999年4月にn氏のお宅へ母とおじゃまして市民の会の代表、o氏とバーツでの絵の展示の打ち合わせ後、n氏がどうせ横浜で作品を運んでくるのだから、より多くの方々に絵を見て頂きたいという思いがあり、施設を地域に開放する取り組みを行い全国的に知名度が高い、知的障害者更生施設「朋」(とも)へ展示のお願いに行ったところ、施設長から、1999年5月開所の「横浜市桂台地域ケアプラザ・横浜市桂台地域活動ホーム 径」(みち)での展示を進められ、横浜市民の会、横浜市栄区民生委員、横浜市栄区美術協会、神奈川新聞社のご協力を得て、5月25日〜6月4日まで私の個展を行うことが出来ました。
私はやっとアマチュア画家の第一歩を踏み出したにすぎません。これからさらに高いハードルを越えなければ成りません。
●一人では何もできません、
マスメディアでは障害者を取り上げる時、その人ばかりをクローズアップし、いかにも障害を克復してこんな事が出来るように成ったという事を強調する傾向が多く見られます。
しかし、たとえ障害を克復したとしても、それをフォローする人々が必ず存在する。
現に私が一枚の絵をかき上げ展示するまでのプロセスを見ても、紙や絵の具の購入、そして額入れや展覧会会場への搬入搬出。
各プロセスで家族やボランティアそして社会福祉協議会のフォローがあったから今に至る事が出来たと思います。だからマスメディアも障害者本人だけではなく、障害者を支える多くの人たちにもスポットをあてて欲しいと思っています。
ーーーー安藤が読み上げた後、パソコンの音声と字幕―――――――――――――
最後に私は心のノーマライゼーション、バリアフリーとは、今までの与える側(普通の人間)与えだれる側(障害者)ではなく、共に社会の中で、権利や義務そして責任をはたし支え合う普通の人間という考えです。(人間は誰でも多くの人間により支えられて生きている。
その最小単位が一人の人間である。またその人間を支えるのが社会であるからです。)
これで、私の話しを、終わらせていただきますが。何かご質問がございましたら、私の解る範囲でお答え致します。
END
次へ