「通学路での私と少女との出会いから学ぶ」
安藤 謙一
私がまだ、マスコミに取り上げだれない、ただの重度障害者の頃のある夏の日。私が町内の身体障害者施設へ遊びに行った帰り、あるバス停でバスを待っていると、前の家から、一人の少女が出てきた。すると少女は私に話し掛けてきた。「おじさん暑いね、何処から来たの、時間があったら私の家へよって。」と言った。私はあと3分でバスが来るので「ありがとう、もうバスが来るからと言った。」少女は私がバスに乗るまでバス停にいてくれた。
私の家は青柳小学校の通学路から100mほど入った所にあり、私が散歩の時、下校時間にあたると、小学生が私を見ると「身体障害者」と言って逃げるか、テレビのバラエティー番組の影響かお笑いタレントの仕草や言葉をまねしてからかうかである。私もこれには腹が立つこともあった。しかし、よくよくこの背景を考えてみると、一般的にマスコミの報道の影響から、身体障害者=車椅子という固定概念が広がっている、だからそれ以外の障害者を見ると変な人と思ってしまうからである。バス停で出会ったあの少女はこのような固定概念がなく素晴らしい子だと思った。
その数日後、私が散歩の途中、その少女が何人かの小学生と共に歩いて来た。少女は私を見て「こないだのおじさんだ、こんにちは。」私も「こんにちは、今学校の帰りかい」と答えた。それを見ていた数人の子供たちは恐そうな顔をして「身体障害者だ恐いよ、早く帰ろうよ」と言って走り出してしまった。その後も同様の事がその少女が中学生になっても続いた。その間、少女は町社協の小中学生ボランティアスクールなどに参加しているのを目にした。
しかし、ある人からその少女の話しを聞いたところ、近所では人となじめない、変わった子だと言っていた。しかし、私はその話しを聞いて、なぜ人となじめない子が私に声を掛けるのか、もしかすると少女のそういう行動がまわりの人々に違和感としてとらわれているたげではないか。日本社会では一定の尺度で人間を評価し、またそこへ組み込まれる事が幸せだという価値観が蔓延している。そこから少しでも外れるとすぐに排除される傾向が多く存在する。それがいじめや差別につながる。もっと一人一人の個性を認め合う事は出来ないものだろうか。
たとえば、私は絵を描いています。美術の世界では人が描いた作品のコピー(盗作)では、なんの価値もない。私は画用紙にクレパスを塗り灯油を含ませたちり紙で擦る技法で絵を描いています。最初の頃の絵は人の技法をまねて描いていた。それがある失敗で自分なりの技法を探し当てた.それは、ホワイトボードに油性のマジックインクで落書きを描いてしまった。たまたま石油ストーブへ灯油を給油してふき取ったちり紙があった、それを取りホワイトボードをふいたら落書きか消えた。それをクレパスを延ばすのに応用できないかと試した結果私なりの技法が出来上がった。たまたま、私は人と違う事と行なう事で社会に認めだれることが出来ました。でも障害者施設のほとんどは失安全第一の点から失敗がない体験ばかり、これでは、経験したことはならないと私は感じています。ですから障害者施設の安全も大切ですが障害者にも失敗を経験させる事が必要だと思います。経験と失敗の連続が人間に取って大切で、その中から福祉教育に大切な多様性の尊重を学ぶことが出来るのではないでしょうか?